2019年11月28日木曜日

ヨーロッパと日本の違いは悪いものでもない。 RS.TAKEDA WRT


柔道や剣道は日本が発祥の地であり本場なので、ヨーロッパの人々は日本に学び日本のルールに従って競技を行い現地で活動している。日本のモータースポーツは日本独自の発展を遂げてきた歴史があり地域性や法律の壁もあり、ヨーロッパと同じルールで開催されることはなかった。その反面ジムカーナやダートトライアルなど日本独自のカテゴリーが確立され独自の歴史を重ねて熟成してきたすばらしい競技もある。


ラリー競技はヨーロッパでは100年を超える歴史を持ち、これまでに日本のほとんどのメーカーがヨーロッパのラリーに参加し、優れた成績を収めることに成功している。日本のメーカーや日本人の持つ力はけしてヨーロッパのチームやメーカーに劣ってはいなかったのだ。ヨーロッパのルールに従い、そこで勝利を収めてきたのはまがうことなき日本の車たちだった。


バブル崩壊からリーマンショック
しかしながらその歯車が少しずつズレていったのは1980年代の終わりごろ、空前のバブル景気に沸いていた日本はプラザ合意を契機として始まった円高の波に押し流され、バブル崩壊の時を迎えた。日本の企業は不景気の中では「自粛」を良しとする風潮が強く、それほど莫大な投資をしていたわけでもないモータースポーツから軒並み撤退する。


それでも海外では現地販売店(ディーラー)や地元の有力チームによる活動を日本のメーカーが支援するという形で細々と参戦を続けていた。スズキやダイハツも海外のラリーに参戦して魅力的なモデルをリリースする。スズキの場合はこの時代の子孫が今のスイフトスポーツ(当時はカルタス)となりスピリッツは受け継がれている。

イギリスのRACラリーへ挑戦するワークスもあり日本車の存在感が高まってきたころ第二のウェーブともいえる「リーマンショック」が日本を襲う。バブル崩壊の時もリーマンの時も「アメリカがくしゃみをすれば日本が風邪をひく」という典型的なパターンで日本の経済は大打撃を受けた。

さらにモータースポーツから国民を縁遠くしていく「オートマ限定免許」と「ハイブリッドカー」が国策により広められていく。マニュアル車は姿を消し、不景気に強いハイブリッド車が増えていった。ハイブリッドカー自体は決して安い買い物ではないが、不景気で懐の寒い国民は「税金の軽減」と「ガソリン代が少なくて済む」ハイブリッドカーに傾倒していく。


そして現代になり、かつてマニュアル車で走り回っていた世代が企業の幹部を務めるようになり、会社の方針決定に影響力を持つようになる。そんな世代の後押しでハチロクが復活しマニュアルのスポーツカーが再び市場に送り出されるようになった。そんな中、今私たちがやるべきことは今の20代、30代の世代に日本のモータースポーツを継承していき文化として再興を果たすことだと考えている。

日本では世界ラリー選手権の開催が決まり、誰も知らなかった異国のモータースポーツ事情が少しづつではあるが日本にも入ってくるようになった。再び文化としてこの地にモータースポーツが根付き、次世代の若者たちに受け継がれていくように何ができるかを考えよう。これはラリーを盛り上げるというだけの問題ではない。新しい文化と価値を創出することこそが私たちのすべきことなのだ。



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